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アートバイタル通信

Vol.07 ミレー

農民を描いた 
ジャン=フランソワ・ミレー

1814年、フランスの農村・ノルマンディー地方に生まれたミレー。彼の少年時代は、のどかな田園風景の中で、ひたすら畑を耕し、羊を追い、麦を刈る日々。しかし、そんな単調な毎日の中で彼が見ていたのは、ただの土や草ではなく、光と影が織りなす美しい世界でした。絵を描くことが好きだったミレー。「クワより筆を持ちたいんだョ!オレは!」とついに村を飛び出し、パリの美術学校へと向かいます。

『横たわる裸婦』1844-45(オルセー美術館)
女の尻ばかり描くやつ、と言われ絶句。

ところが、いざパリに出てみると、都会の空気は厳しかった! 言葉の訛りをからかわれたり、お金のために女性のヌードを描いたり、鬱々とした日々を送るミレー。

「自分が描くべきものはパリにはない。」と34歳で一念発起。自分自身を見つめ直すためにバルビゾン村に移住しました。試行錯誤の末、2年後に『種を蒔く人』を発表します。子沢山だったミレーは貧困の極みの中でこの作品を描いたとのこと。

『種を蒔く人』1850(オルセー美術館)
この絵が入選したと知らされた時のミレーは餓死寸前だった!

その後『落穂拾い』『晩鐘』を発表し、順調だと思った矢先に、また新たな問題が。「ミレーって社会主義者なんじゃない?危ない奴かもしれない!」という疑惑が浮上したのです。農民の姿を美しく描きすぎたため、当時の政府から「貧しい人々を持ち上げすぎじゃないか?さては社会主義者だろ?」と警戒されたのです。

『落穂拾い』1857年。油彩、キャンバス、83.5 × 110 cm。オルセー美術館[64]。1857年サロン入選。
『落穂拾い』1857(オルセー美術館)
落穂を拾うのは、土地を持たない最も貧しい身分の女性たち。
『晩鐘』1857-59年。油彩、キャンバス、55.5 × 66 cm。オルセー美術館[65]。1867年万博展出展。
『晩鐘』1857(オルセー美術館)
この絵を描いた理由をミレーは「畑で働く祖母の姿を思い出したから」と語った。
祈る二人の足元にはカゴに入ったじゃがいも。

いやいや、ただ純粋に農民の暮らしを描いただけなのに!! そこには美しさがあるだけなのに!!そんな政治的な騒ぎに巻き込まれながらも、ミレーはひたすら自分を信じて黙々と絵を描き続けました。『種を蒔く人』から13年後に発表された『羊飼いの少女』。この絵を見た誰もがその素晴らしさに圧倒され、誰もが拍手を送りました。

『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm。オルセー美術館[83]。1864年サロン入選。
『羊飼いの少女』1863(オルセー美術館)
静けさと神々しさと。
言葉では表現できない美しさに誰もが絶賛。

ようやく画家としての地位を確立たミレーは、60歳で亡くなるまでバルビゾン村で静かに筆を取り続けました。ミレーの作品は後世の画家たちに『自分を信じて、自由に描いていい』ということを示唆し、大きな影響を与えました。その中でも特にゴッホは、激しくミレーを尊敬していたそうです。

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